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【2002/11/17】
コレダケハイワセテ!
Today's Shot
哀しみよ、故郷の山河に木霊せ!
(中編)
ーお帰りなさい、曽我ひとみさんー
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<故郷(ふるさと)へ>
米政府が、今月初めの米朝高官協議で、北朝鮮が核兵器開発を進めていることを認めたと声明を発表した17日午前、一時帰国中の拉致被害者5人は、東京での2日間の日程を終え、宿泊先の都内のホテルを9時半ごろ出発、それぞれの郷里へと向かった。
佐渡島出身の曽我ひとみさんは、柏崎市出身の蓮池・奥土夫妻と一緒に、東京駅から上越新幹線「MaXあさひ313号」に乗車した。
帰国時の会見でも硬い表情を崩すことのなかった曽我ひとみさんは、この日、ピンクの大きな花束を両手に大事そうに抱えて、新幹線のホームを妹の冨美子さんと並んで歩きながら、報道陣から「行ってらっしゃい!」と声を掛けられると、くるりと後ろを振り向き満面の笑みを浮かべた。
一行は一般客と一緒に二階席にすわり、車中では雑誌を読んだり、時折笑いながら家族らと歓談するなど、和やかな雰囲気に包まれていたという。
列車は正午過ぎ、新潟駅に到着。当初は緊張した様子の3人であったが、高橋正樹・新潟県副知事から歓迎のユリとバラの花束を受け取って、笑顔を見せた。
新潟駅前に用意された迎えのマイクロバスの周囲には、地元の人ら約500人が集まり、「お帰りなさい」「お疲れさま」などと呼びかけ、曽我さんは笑顔で手を振って応え、バスに乗り込んだ後も、集まった人たちに手を振り続けていた。
この後、曽我ひとみさんは、チャーター機で佐渡島へ向かった。佐渡島の空港からは、バスで真野町へ。
そこには、19才で拉致され24年ぶりに故郷の土を踏んだ曽我ひとみさんを出迎える中学時代の担任、近藤美紀子さん(61)や幼なじみほか約200人の温かい歓迎があった。
曽我さんは、午後3時半から真野町役場で記者会見に臨んだ。会見ではまず、地元「救う会」会長の小島晴則氏より次の挨拶があった。
「ひとみさんはバスの中で、ほとんどハンカチを目に当てていた。そして同級生や町民の皆さんから迎えられた。その感激もあるでしょう。しかし、いま一つは、家族を残したままの帰国、いま一つはお母さん。一緒に拉致されたお母さんは見えない傷、この何とも言えない無念さだと思います。こういう状況の中で、ひとみさんはここから24年間の空白を埋めようと思っても埋めることのできない心の、まだ傷を背負っている。この傷を皆さんとともに共有できたら、という思いでいっぱいでございます。」
曽我さんは、嗚咽していた。
続いて曽我ひとみさんが、新幹線の車中で書き綴ったというメモを、ゆっくり、何度も涙を拭いながら読み上げた。
曽我ひとみさんの会見 みなさん、こんにちは。
24年ぶりにふるさとに帰って来ました。
とてもうれしいです。
心配をたくさんかけて、本当にすみませんでした。
いま、私は夢を見ているようです。
人々の心、山、川、谷、みな温かく美しく見えます。
空も、土地も、木も、私にささやく。
「お帰りなさい。頑張ってきたね」
だから私も嬉しそうに「帰って来ました。ありがとう」と元気に話します。
みなさん、本当にどうもありがとうございました。
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<24年ぶりの父>
この後、曽我ひとみさんは、バスで実家に向かった。
実家近くの集会所に集まった近所の人約60人には、「町がたくさん変わり、びっくりした。でも人の心は、24年前と変わりありません」と挨拶した。
足の具合が悪いため出迎えに行けず、めったに着ない背広を身につけて実家の庭先で待っていた父・茂さんの目前に、午後4時半過ぎ、24年ぶりに再会する我が子・ひとみさんの姿が現れた。
お互いを見つめ合いながら、父と娘はゆっくりと・・・、駆け寄るでもなく、叫ぶでもなく、強いられた長い長い24年間の別離と再会を象徴するかのように、ゆっくりと、しかししっかりと、互いに歩み寄って行った。
そして娘は、24年ぶりに愛する父の胸に飛び込んだ。娘の肩に手をやり、しっかり抱きしめる父。父の首に手を回して、その胸に泣き崩れる娘。娘も父も、声をはばからず泣きじゃくった。それは、24年間の涙と咆哮であった。
「ご苦労だったな。父ちゃん待っとった。よく帰って来た。ありがとう」。父の言葉に、ひとみさんはただうなづくばかりであった。
懐かしの我が家に入ったひとみさんの表情は、和やかになっていた。
同席した支援者から、「父ちゃん、変わったか」と聞かれると、「変わってません」と、老いた父の首に手を回して、涙のこぼれる顔を寄せた。
「茂さん、あまり酒を飲まないで」という声には、父の手を取って「指切り」をさせたという。茂さんの話によれば、この「指切り」は、「指がもげるほど痛かった」そうだ。
ひとみさんは持参したアルバムを開きながら、「これは長女だよ」と、北朝鮮に残した茂さんの孫にあたる娘や家族を紹介したりしたという。しかし母ミヨシさんに話題が及ぶと、「わからない」と首を横に振るばかりであった。
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<一人だけの卒業式>
故郷での一夜が明けた18日、誰よりも早く起きた曽我ひとみさんは、仏間や部屋の掃除を済ませ、朝の食卓に並んだ金ぴらゴボウを「久しぶり」と言って口にした。
午前中は、足の悪い父・茂さんを気遣うように手を取りながら、先祖の墓のある「大願寺」に墓参りをし、母ミヨシさんとつい最近まで自分の遺品が納められていたという墓に両手を合わせた。
午後は、島内のホテルで、県立佐渡高校沢根分校の同窓会に出席した。
曽我さんのいた約15人のクラスを担任した恩師・本間和城さん(57)は、昼間は准看護婦、夜は定時制高校へ通っていたひとみさんは、「頑張りやで、思いやりがあった」と語った。
その教え子が行方不明になったのは、あと半年で卒業という夏であった。不慮の事件により卒業できなかったひとみさんに、この日、一人だけの卒業式が行なわれ、ひとみさんは、藤木国裕校長から授与された卒業証書を、涙を拭いながら震える手で受け取った。
曽我ひとみさんは、この日はそのまま同ホテルに宿泊し、同級生であった親友の上林芳子さん(43)と、語り合いながら手をつないで眠ったという。
19日、曽我さんは、「生まれて初めて」着物を着て、同じく着物姿の妹の冨美子さんと羽茂町の神社にお参りし、冨美子さんの長男・大輔クン(3)の七五三を祝った。
20日は、冨美子さんの家族とともに、新穂村の「佐渡トキ保護センター」を訪れた。また、この日地元真野町四日町は秋祭りの最中で、伝統の舞を舞いながら家々を回る”鬼太鼓”が夕方、笑顔で迎える曽我ひとみさんの家にも訪れた。
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<「家族の会」の決断>
「拉致被害者は、1〜2週間で北朝鮮へ帰す」。これが、当初の日本政府と北朝鮮の間の約束事であった。
滞在期間をめぐっては、北朝鮮は1週間を主張し、日本側は2週間程度を要求。双方に、「遅くとも29日からの国交正常化交渉前には北朝鮮に戻す」との暗黙の了解があり、結局、「離日は27日を軸に、本人や家族が望めば28日まで一日延ばす」という線で、落着するはずであった。
一方、21日、安倍官房副長官は記者会見で、「北朝鮮側はあくまでも本人の意思を尊重するということだ」と語り、被害者本人と子供が希望すれば、北朝鮮側は永住帰国を容認する考えだと説明。
竹内行夫外務事務次官も同日の記者会見で、「北朝鮮との間ではかなり早い時期に、子供を含む家族全員の帰国を実現させるということを確認している」と発言。
このことから北朝鮮側は、「拉致被害者を一度、北朝鮮に戻し、家族の意思を確認させたあと、本人と家族が希望するならば、適当な時期に全員を日本に帰国させることを、外交交渉のカードとして使おうとしていたのではなかろうか、と推測される。
しかし、現実は、まったく違った方向へ進んでしまった。
北朝鮮との約束事であったはずの拉致被害者の「一時帰国」が、いつの間にか「永住帰国」となってしまったのである。
その発端は、一時帰国者を帰すにしても、「家族とともに再帰国する時期を確定するのが絶対条件」とした、安倍官房副長官の強固な方針にあった。
「いったん北朝鮮に戻った5人が、二度と日本に帰ってこなかったら、小泉首相の責任になる」。24日夜の記者会見で、安倍官房副長官は、「それでも被害者本人が、北朝鮮に帰ると言ったらどうするのか?」との質問に、「ご本人が今、自由な意志を公に向かって表明できるのかどうか、お考えいただきたい」と強い口調で語ったという。
この日本側の条件に対し、22日明らかになったところによれば、北朝鮮側は、「子供は学校があるので、11月中の日本への帰国は難しい。永住帰国を判断する前に、一時帰国中の5人の家族が訪朝し、暮らしぶりを見てほしい」と、日本政府へ伝えてきたそうだ。
さらに日本時間17日、米国政府によってリリースされた、「北朝鮮は、核兵器開発を進めていると認めた」との衝撃的な声明が、日朝間に横たわる「拉致問題」の解決を、米朝間の「核・ミサイル」交渉の重要カードへと変質させてしまった。
北朝鮮の金正日総書記が、日朝首脳会談開催に応じ、その会談で北朝鮮による日本人「拉致」を認め、「日朝平壌宣言」に署名をした目的はただ一つ、日本から戦後保障もしくはそれに代わる経済協力支援を獲得するためであったことは明白である。
その日本からの経済協力支援の大前提となるのが、少なくとも「日朝平壌宣言」署名の段階においては、「拉致問題」の解決であった。
田中均・アジア大洋州局長が描いた青写真によれば、日朝間に刺さったトゲ「拉致問題」は、北朝鮮が5人の「生存」拉致被害者を家族も含めて日本へ「永住帰国」させることで、片がつくはずであった。
しかし、北朝鮮が自ら核開発継続を認めるに至った現在、日朝間の国交正常化交渉の前に横たわる問題は、「拉致問題」以前に、米朝間のみにおいてしか解決メドの立たない「核開発問題」が最重要課題となってしまったのである。
蓮池薫さんの兄・透さんが22日、中山内閣官房参与に電話で、「北朝鮮に残された拉致被害者の家族を、早く日本に連れ戻してほしい」と要望した際に、中山参与が、「交渉しているが、北朝鮮側のコメントが取れず、イライラしている。核開発問題もあり、微妙になってきているので、ご理解を」と話したという23日付日経新聞朝刊39面の記事もあった。
滞在期間の延長は、北朝鮮側との了解を日本側から破棄することになるため、拉致事件の真相解明で北朝鮮の効果を招く懸念は消えない。しかし、拉致被害者家族からの要望である、もし5人を帰すなら「家族とともに再帰国する時期を確定するのが絶対条件」であるにもかかわらず、北朝鮮側は、「永住帰国を判断する前に、一時帰国中の5人の家族が訪朝し、暮らしぶりを見てほしい」という、日本側の要望には答えない回答を出してきた。
小泉首相および安倍官房副長官は、これまでことある毎に、5人の拉致被害者の「永住帰国」について、「本人と家族の意思を尊重する」と公言してきた。
そして、このような微妙な折に、拉致被害者の「家族の会」が、決断した。
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23日午前、北朝鮮による拉致被害者の「家族の会」は、都内のホテルで安倍官房副長官や中山内閣官房参与らと相次いで会談し、一時帰国した5人を北朝鮮に戻さず、北朝鮮に残る家族らを呼び寄せるよう政府へ要望した。
政府への申し入れ全文 私たちは、今回帰国を果たした蓮池薫さん、奥土祐木子さん、地村保志さん、浜本富貴恵さん、曽我ひとみさんの北朝鮮送還に反対し、家族全員の帰国を求めます。
もちろん、それには曽我さんのご主人であるジェンキンス氏および横田めぐみさんの娘さんと言われるキム・ヘギョンさんも同行させ、日本政府が責任を持って保護することも含まれます。
北朝鮮はこれまで、さまざまな約束をほごにしてきました。たとえ、後に完全帰国ができると約束したとしても、何らかの理由をつけてその約束を守らない可能性は少なくありません。
もし北朝鮮へ行ってから再度の帰国ができなくなれば、、取り返しがつきません。既に家族の中には、その恐怖から体調を崩す人までも出ています。
また、拉致された日本人は5人だけではありません。私たちが大部分生存していると確信している8人に加え、福留貴美子さん、田中実さん、小住建(健)蔵さんをはじめとした膨大な数の未確認者がいるのです。
日本政府は北朝鮮に拉致された人々すべての完全現状復帰を実現する義務があります。そのためにも、帰国した5人とその家族を守り抜くことが絶対に必要です。
政府・議会・報道関係各位、そしてすべての国民の皆さまのご協力を説にお願い申し上げます。
同日の会合には、「家族の会」から地村保志さんの父・保さん(75)と浜本富貴恵さんの兄・雄幸さん(73)らが出席した。
「家族の会」に、この重い決断をさせたものは、何であったのか?
<地村・浜本夫妻の家族>
この日、「家族の会」の要望書提出に上京した浜本富貴恵さんの兄・雄幸さんは記者会見で、「本人はまだ意思表示をしていない。家族としては絶対北朝鮮に帰さない、ということで一致している。妹にも、”お前らは絶対帰さん”と言ってきた。5人が拉致された以上、北朝鮮にいる子供も含めた原状回復を果たすのが当然だ」と語った。
同じく地村保志さんの父・保さんは、「子供が北朝鮮にいるままでは、(永住帰国について)5人が自由に発言できる状況になく、親としても説得は不可能。政府間の交渉で、5人が日本にいる間に子供を取り戻してもらいたい」と訴えた。
<地村保志さん>
地村保志さんは23日午後、富貴恵さんとともに福井県小浜市役所に婚姻届を提出したあと記者会見し、「共和国(北朝鮮)が拉致を認めなかったので、帰れないと思った。生活も不便でなく幸せだったので、帰ろうとは思わなかった」。また北朝鮮に残してきた3人の子供については、「生まれてから社会主義の教育を受けてきた。両親が日本人ということも、どうやって共和国に来たのかも知らない。(子供に)旅行に行くと言って出てきたが、(北朝鮮に)戻ってどう説明するかまだわからない。親や親戚と相談している」と、苦しい胸中を語った。
<蓮池・奥土夫妻の家族>
蓮池薫・奥土祐木子夫妻の家族は23日、旅行先の新潟県妙高高原町で記者会見し、「何が何でも帰さない」「本人の意思は関係ない」と二人の離日に強く反対、北朝鮮にいる子供たちを政府が呼び寄せるよう訴えた。
特に蓮池薫さんの兄・透さん(47)は、「北朝鮮の核開発問題がクローズアップされると、拉致事件が吹っ飛んでしまう。薫も一度戻ると再び帰って来る保証はない」と語り、薫さんには、「家族としては柏崎から一歩も出さない。出て行きたいんだったら、自分たちで歩いて出て行きなさい」と伝えたと明らかにした。
蓮池さんの父・秀量さん(75)は、「薫、祐木子をどうしても北朝鮮に帰したくない」と語り、母・ハツイさん(70)も、「帰してしまうと、24年間苦しんできた道を戻ってしまう」と涙ぐんだという。
<蓮池薫さん>
一方、蓮池薫さん本人はこの日、「家族の要望はわかったが、私にも自分の立場がある。(北朝鮮との)約束がある」と語った。
蓮池薫さんは、これに先立つ21日夜、兄・透さんの自宅に宿泊中の薫さんに永住帰国を説得しに訪れた幼なじみの友人4人に対して、「とにかく難しい。子供がいるから」と複雑な心境を垣間見せると同時に、「向こうも謝ってくれている。おれにはおれの24年間がある」と、真剣な顔で反論したという。(日経新聞2002年10月23日朝刊38面)
<曽我ひとみさん>
曽我ひとみさんは22日夜、自宅訪問した同級生と恩師約10人に、永住帰国について「一人では決められない。何度か日本と北朝鮮を行き来し、向こうの家族と相談した上で時間をかけて決めたい」と語った。
さらに北朝鮮に残した19才と17才の大学生の娘二人については、「物心ついた頃から、自分が日本人であることや拉致されてきたことを少しずつ話してきた。はじめはショックを受けていたが、今は普通に生活している。二人を佐渡へ連れてきて日本のことを知ってもらった上で、(永住帰国について)最終的に決めたい」と話したという。(日経新聞2002年10月23日朝刊39面)
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北朝鮮による拉致被害者の「家族の会」の要望を受け、政府は23日、当初27日か28日までとしていた北朝鮮から一時帰国している拉致被害者5人の滞在期間を当面延長し、29日から再開する日朝国交正常化交渉で、北朝鮮在住の被害者の子供らを日本に送るよう要求する方針を固めた。
この政府決定により、9月17日、田中均・アジア大洋州局長の裏交渉により実現の運びとなった、日本の首相による初めての北朝鮮訪問と「日朝首脳会談」、続く「日朝平壌宣言」の署名によってスタートした小泉「日朝」外交は、その目的、内容において抜本的な変質を遂げた。
29日に再開された「日朝国交正常化交渉」の場で、白日に曝されることとなったその後の成り行きを考慮し、「一時帰国」という北朝鮮との約束を反故にして「永住帰国」とする政府決定に至るプロセスを顧みるとき、安倍官房副長官に率いられた政府の思惑と一致した「家族の会」の決断が、日朝における拉致問題交渉のターニングポイントとなったと言わざるを得ない。
政府の「本人と家族の意思を尊重する」という言葉とは裏腹に、現実は上述のごとく、「ご本人が今、自由な意志を公に向かって表明できるのかどうか、お考えいただきたい」とする安倍官房副長官の言葉や、「子供が北朝鮮にいるままでは、(永住帰国について)5人が自由に発言できる状況になく、親としても説得は不可能」と語った地村保さんの言葉に象徴されるように、拉致被害者本人の希望は考慮されず、その家族の意思が優先したと言わざるを得ない。
私は、それがどうのこうの、良い悪いと言うつもりはまったくない。その時点において、「家族の会」は、いずれかを選択せねばならなかった。
当事者による苦渋の選択に対して、部外者がどうこう語れるほど、この問題は簡単な問題ではないことは明白である。
しかし、そのことから離れて、いや、そのこと自体がと言えるかもしれないが、拉致被害者「家族の会」の決断は、拉致被害者本人に、彼らが彼の地で長年かけて築き上げてきたその子供たちや夫とのささやかな絆を、「引き裂かれる」思いに至らしめたこともまた、現実の姿であった。
「悲劇」としか、言いようがない。
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列車の進行とともに、
故郷の山や川が目に浮かんでくる。
私を迎えてくれる父と、旧友たちを想い、
私はお礼のあいさつの言葉をメモ書きした。
故郷は、私を優しく迎えてくれた。
24年ぶりの父は、24年前と同じ心で迎えてくれた。
私を抱きしめてくれた父。
私が抱きしめた父。
その時私は、ほんのしばらく24年前の私に戻った。
親友に、旧友に、親族に、知人に再会した。
みな私を優しく迎えてくれた。
故郷の皆さん、私は頑張りました。
ほんとうにどうもありがとう!
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哀しみよ、故郷の山河に木霊せ!(前編)
<再び引き裂かれる拉致被害者>へとツヅク。お楽しみに!
(2002/11/17)
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