目覚し時計のTAKA



コレダケハイワセテ!
Today's Shot


2002/11/02】 


哀しみよ、故郷の山河に木霊せ!
(前編)


ーお帰りなさい、曽我ひとみさんー




その名前は、そのときまで、歴史の片隅に封印されていた。・・・・・



<日朝首脳会談>


2002年9月17日午前9時6分、北朝鮮の金正日総書記との首脳会談に臨むため、政府専用機で平壌郊外の順安国際空港に降り立った小泉純一郎首相は、日本の首相として初めて北朝鮮訪問の第一歩をしるした。
この歴史的会談の陰の演出者、田中均・外務省アジア大洋州局長は、空港から一足先に首脳会談が開催される百花園迎賓館に向かい、そこで北朝鮮側から衝撃の拉致被害者安否リストを提示された。
そこには、日本政府が拉致と認定し北朝鮮側に安否確認を求めた8件11人のうち、6人の死亡と4人の生存および1人の不明に加えて、日本側確認リストにはなかった2人の死亡と氏名不詳1人の生存が記されていた。

19日、日本政府が拉致被害者と認定していなかった氏名不詳の生存者の名前が、その表記から「ソガ・ヒトミ」さんとみられる、との報道が流れた。
新潟県佐渡島中央部の真野湾に面した人口6千人余の小さな町、真野町。
ここに住む曽我茂さん(70)はその夜、娘と同姓同名の人物が北朝鮮で生存しているとのニュースを聞き、「うちの娘では」と20日早朝、真野町役場に名乗り出た。
娘さんの名は、曽我ひとみさん。



<拉致>


1978年8月12日夕方、当時19才の準看護師であった曽我ひとみさんは、母親のミヨシさん(当時46才)と「近所の雑貨店に買い物に行く」と言って海岸から約2百メートル離れた自宅を出、買い物を終えて帰宅途中、忽然と行方不明となった。
当日夜から、近所の人が総出で海岸などを捜索し、警察に捜索願も出されたが、遥として二人の消息はつかめず、8年後の86年、裁判所による失踪宣言が出され、戸籍からも除籍された。その後、父の茂さんは、「気持ちの区切りをつける」ため、遺骨のないまま葬式を済ませ、墓も作ったという。
ひとみさんは1977年4月から、夜は定時制高校へ通うかたわら、日中は佐渡島金井町にある病院で準看護師として勤務していたが、失踪後の78年8月末に退職扱いとなった。


曽我茂さんは20日、平山征夫新潟県知事を訪れ、ひとみさんの情報確認を依頼した後、県庁内で記者会見し、「今でも二人の夢をよく見る。近所の人は、二人は東京にでも行ったのだろうと言っていたが、まさか北朝鮮にいるとは想像もしていなかった。本人だったら早く会いたい。それしかないです」と語った。
一方、母親のミヨシさんの安否について周辺住民の間では、「ひとみさん一人だけを拉致したとは考えにくい」と、北朝鮮側の情報に不審の念をつのらせる声が日増しに強まっている。



<北朝鮮に政府調査団派遣>


日本人拉致事件の真相解明を目的に、斎木昭隆外務省アジア大洋州局参事官を団長とする政府調査団が北朝鮮に派遣され、28日から10月1日まで平壌に滞在し調査活動を実施した。帰国翌日の2日午前、安倍晋三官房副長官らは内閣府に拉致被害者家族を招き、調査結果を説明した。
調査報告は、三種類であった。一つは、北朝鮮側が伝えた「死亡者」「生存者」に関する新たな個人情報。二番目は、生存する拉致被害者5人と横田めぐみさんの娘とされる少女に、政府調査団が面談聴取した要旨。最後に、その面談時の一部を撮影した約10分間のビデオテープであった。


9月29日午前、北朝鮮外務省の馬チョルス第4局長は政府調査団に対し、拉致被害者の「個別情報」に関する説明のため、用意した文書を読み始めた。調査団は、文書そのものの提供を要求したが、北朝鮮側は拒否した。
北朝鮮より説明のあった個別情報
 
曽我ひとみさん
  1. 朝鮮名:ミン・ヘギョン 女 1959年5月17日生
  2. 本籍:新潟県佐渡郡
  3. 出生地:新潟県佐渡郡
  4. 住所:新潟県佐渡郡
  5. 現住所:平壌市スンホ(勝湖)区域リプソクリ(立石里)
  6. 前職:佐渡総合病院看護婦
  7. 現職:被扶養生活
  8. 入国経緯:1978年8月12日、特殊機関工作員が身分隠しおよび語学教育の目的で現地請負業者(日本人)に依頼し、引渡しを受けて連れてきた。
  9. 入国後:約2年間特殊機関の招待所において、語学の学習、参観を通じ、実情に慣れてきた。
    1980年8月8日、入北した元米軍兵士と結婚し、国家から生活条件を保障されて暮らしている。
  10. 家族関係:夫>チャールズ・ロバート・ジェンキンス(Charles Robert Jenkins)。1940年2月18日生で現在62歳。南朝鮮侵略軍第一騎兵師団8連隊1大隊C中隊の分隊長中士として勤務中に1965年1月5日入北。チャールズは、曽我ひとみさんと結婚し、2人の娘をもうけた。
    長女:美花、平壌外国語大学学生、1983年6月1日生、19歳。
    次女:ブリンダ、平壌外国語大学で勉強している。1985年7月23日生、17歳。
  11. 母・ミヨシさんについては承知していない。特殊機関工作員が現地請負業者から引き渡しを受けたのは曽我ひとみさん一人だけ。


29日午後4時半から6時頃まで、政府調査団事実調査チームは、ソガ・ヒトミさんとされる方と面会した。
曽我ひとみさん(43)は、調査団にこう語った。
拉致調査団 面会聴取の要旨
<曽我ひとみさん>
ーーソガ・ヒトミさんですね?「そうです
ーー日本語でいいですか?「朝鮮語でお願いします
以下質問は日本語で行ない、回答は日本語交じりの朝鮮語で行なわれた。
ーーお母さんは一緒に来ましたか?「あの時以来、会っていません
ーー買い物に行くと言って別れたままですか?「そうです
ーーお子さんは何人ですか?「娘が二人いて、外国語大学に通っています」「敬愛する将軍様のご配慮により、勉強させることができました。娘も父親のように英語ができるよう、外国語大学に入れてくれました
ーー日本を離れた経緯を説明してほしいのですが、夜お母さんと買い物に行った後、どうなりましたか?「男三人が並んでついてきていました。突然後ろから男たちが襲ってきて口をふさがれ、袋に詰められて、担がれて行きました。その後、小さな船に乗せられ、沖に出て少し大きな船に乗り換えました
ーー船から下りてその後どうしましたか?「招待所に連れて行かれました」「一日後の午後5時の汽車に乗って、翌日の朝方に平壌に到着しました」「平壌に着いた後、また招待所に入りました」「その後、他の招待所に移動しました。そこにはもう一人の日本人がいて、それが横田めぐみさんでした
ーー横田めぐみさんはどんな様子でしたか?「元気でした。朝鮮語を一緒に勉強しました
ーーいつまでめぐみさんと一緒にいましたか?「その年の12月までです
ーーその後、他の日本人と会いましたか?「再び横田めぐみさんと会いました。この時は7カ月間一緒にいました
ーー何をしていましたか?「朝鮮語の勉強です
ーー生活費はどのように工面していますか?「毎月国家から支給されています。おコメも無償でもらい、配慮を受けています
ーー日本に帰りたいとかの話をしていましたか?どうして帰るのが無理だと考えましたか?「帰りたかったけど、それだけの力がありませんでした
ーー横田さんと最後に会ったのはいつですか?「1980年の5,6月だったと思います
ーーどうして連れて来られたとお考えですか?「朝鮮語を学ばせるためとだけしか聞いていません

インタビューの中で曽我ひとみさんが「将軍様」と呼んだことに関して、10日の日経新聞朝刊39面に、在日朝鮮人三世で関西大学助教授の李英和さんの次のような解説が掲載されていたのが、もっともわかりやすいのではないかと思う。
「北朝鮮で、曽我さんのような”配慮”は、生きる智恵」

10月3日午前、拉致被害者の家族連絡会は、政府調査団が生存者5人と横田めぐみさんの娘とされる少女との面談時に、彼らの同意を得てその一部を撮影したビデオテープを、集まった11家族約20人全員で見た。
ビデオは、生存者5人と少女が一人1〜2分ずつ家族あてのビデオレターのような形で画面に語りかけたもので、録画時間にして約10分ほどのもの。

「手紙を書いてきました」。画面の中で曽我ひとみさんは、明るい表情で家族にあてた手紙を読み始めた。妹の金子富美子さん(37)は、「姉とはっきり分かりました」。調査団からは読み上げた手紙も受け取ったが、調査団との面談でひとみさんは金正日総書記を「将軍様」と呼んでおり、富美子さんは「母もまだ見つかっていないし・・・」と視線を落とした。(日経新聞2002年10月4日朝刊43面)



<一時帰国の決定>


政府は10月2日、北朝鮮が政府調査団に明らかにした、曽我ひとみさんと1980年に結婚したとされる元米軍兵士チャールズ・ロバート・ジェンキンスさん(62)に関する情報を、米政府に伝達した。


9日昼、安倍晋三官房副長官と中山恭子内閣官房参与らは、拉致被害者家族の代表を内閣府に招き、生存が判明した5人の被害者が15日に一時帰国することに北朝鮮側が同意したことを伝えた。
ただ、一時帰国は家族を同行せず本人だけで、日本滞在も2週間程度となる予定である。


10日の日経朝刊1面に、次の記事が載った。
『安倍官房副長官は9日の記者会見で、生存する拉致被害者5人の15日の一時帰国では見送られた子供の一時帰国についても、早期に実現させることで北朝鮮と合意したことを明らかにした。』


15日の日経夕刊19面が、この日午後、24年ぶりの一時帰国を果たす拉致被害者の家族と故郷の期待と不安の交錯する再会直前の思いを報じていた。
『曽我ひとみさんの妹の富美子さんは、「姉と会ったら、最初に”お帰りなさい”と声を掛けたい。佐渡に帰ったら、観光スポットを見て回りたい」と、長い年月の空白を、滞在中に少しでも取り返したいという思いがにじむ。』
『曽我ひとみさんの故郷、佐渡島の真野町でも、「おかえりなさい 曽我ひとみさん」と書かれた垂れ幕を作製。母のミヨシさんの安否が依然不明なこともあり、手放しで喜べないと逡巡していた町役場だが設置に踏み切った。』



<24年ぶりの帰国、家族再会>


24年ぶりに故国に一時帰国を果たす5人を出迎える政府チャーター機が平壌に到着した10月15日朝、空港貴賓室には横田めぐみさんの娘とされるキム・ヘギョンさん(15)が姿を現し、曽我ひとみさんと涙を流しながら肩を抱き合っていた。
空港には、曽我さんの夫のジェンキンスさんと娘さんも来て、手を振って見送った。

その平壌の空港で、ジェンキンスさんが斎木・アジア大洋州局参事官に、「自分は1960年代に軍人として日本(横須賀か横浜)にいたことがある」と語ったことが明らかとなった。斎木参事官が、「日本に来る気はありませんか」と尋ねると、ジェンキンスさんは、「自分の立場を考えると難しいのではないか」と答えたという。(日経新聞2002年10月16日朝刊2面)



北朝鮮による拉致被害の生存者5人を乗せた日本政府のチャーター機は午後2時半、東京・羽田空港の「V1」スポットに到着した。数分後、タラップ上に姿を見せた5人。
24年ぶりの夢に見た祖国。でもタラップの上の曽我ひとみさんは、笑顔の他の4人に比べてなぜか表情が硬かった。
タラップの下には、それぞれの肉親が・・・父が、母が、兄弟が、妹が。24年ぶりの再会。涙、涙、笑顔、涙・・・
曽我ひとみさんは、妹・金子富美子さんを見つけると「富美子!」と駆け寄り、抱き合って泣いた。お父さんの茂さんは、足の具合が悪いため、この日上京を見合わせていた。

再会した家族は、記念撮影するなどして感激を分かち合った後、百メートルほど離れた貴賓室へ。
5人と家族らは、空港からバスで都内のホテルへ向かった。曽我ひとみさんは妹に、「言葉は夫がアメリカ人なので英語と朝鮮語で話している」と話し、「父ちゃんはまだお酒を飲んでいるのか」と酒好きの父を気遣ったという。
午後6時半からホテル内で開かれた被害者5人と家族の記者会見で、最初にマイクを持った曽我ひとみさんは、「とても会いたかったです」と言葉少なに語った。

一時帰国した5人の拉致被害者は、ホテルのそれぞれの部屋で家族水入らずで24年ぶりの日本の夜を過ごした。
曽我ひとみさんは妹の富美子さんら家族3人で、政府差し入れのすし、てんぷら、さしみの夕食をとり夜を過ごした。
でも「やっぱり来たばかりで疲れているみたいで、ご飯を本当に少ししか食べれませんでした」と、冨美子さんは語った。
母親のミヨシさんのことは、「何もわかりません」と一言だけ答えたという。


新潟県佐渡島真野町。曽我ひとみさんの実家の隣に住む鈴木エイコさん(60)は、「目、鼻、口・・・。(ひとみさんの母親で行方の分からない)ミヨシさんとそっくりの顔になった」と目を潤ませたが、「緊張しているのか、表情が硬かった。”良かったね”と言いたいが、それ以外にどんな言葉を掛ければいいのか」と戸惑いも見せた。(日経新聞2002年10月16日朝刊38面)


5人は一夜明けた16日午前、死亡したとされる被害者の7家族11人と面会した。
横田めぐみさんについては、蓮池薫(45)・奥土祐木子(46)夫妻、地村保志(47)・浜本富貴恵(47)夫妻ともに、横田めぐみさんと平壌郊外にある「特殊機関」職員向けの「同じ集落で生活したことがある」と証言した。さらに蓮池薫さん、地村保志さんともにめぐみさんの夫と同じ職場だった時期があり、浜本富貴恵さんはめぐみさんと家族ぐるみの親密な交際をしていたという。曽我さん以外は、めぐみさんとは、互いが日本人拉致被害者であることを知らずに付き合っていたという。
一方で、他の被害者に関しては、5人全員「全く知らない」と話した。



<拉致事件の象徴「横田めぐみ」さん>

10月3日の日経新聞朝刊43面に、伊豆見元・静岡県立大学国際関係学部教授による、拉致に関する政府調査団報告についての次のコメントが掲載されていた。
『北朝鮮が明らかにした拉致被害者の個別情報では、曽我ひとみさんが横田めぐみさんと一緒に生活していたことを盛り込んだのが、最大の注目点だ。
帰国が実現した場合、曽我さんは、めぐみさんの拉致後の北朝鮮での生活ぶりなどを証言する役割を担わされるだろう。
日本にとって、横田めぐみさんは拉致事件の「象徴」ともいえる存在。日本人が証言することで、北朝鮮の被害者情報の信憑性が高まるという狙いがあるのではないか。』

伊豆見教授が指摘しているのは、北朝鮮が横田めぐみさんに関して出してきた「新たな個人情報」の中にある、『入国直後は、招待所で曽我ひとみさんと生活』と書かれた部分についてである。


私は、こう考える。
13才で下校途中に拉致された横田めぐみさんは、めぐみさんのお父さん滋さん(69)が「拉致被害者家族の会」の代表であることもあり、伊豆見教授が指摘するとおり、北朝鮮による拉致事件に対する日本国民の怒りの「象徴」とも言うべき存在となっている。
そこで北朝鮮側は、彼らの説明によれば、うつ病からの自殺という痛ましい死を遂げた横田めぐみさんについて、過去の生活ぶりを偲ぶ出来得る限り多くの情報を提供することによって、日本国民の怒りをの感情を慰留しようと意図したのではないかと推測される。
そして横田めぐみさんには、キム・ヘギョンさんという15才の娘さんが存在した。
今回生存が確認された地村・浜本夫妻と蓮池・奥土夫妻は、一時期横田めぐみさんの近所に住んでいて、しかも、浜本さんの次男とヘギョンさんが同じ幼稚園に通っていたという繋がりがあったという。
このような関係から北朝鮮側は、地村・浜本夫妻と蓮池・奥土夫妻を日本へ帰した場合、横田めぐみさんとその娘ヘギョンさんの名前が表に出てくるのは必定であり、キム・ヘギョンさんが表に出てくると、ヘギョンさんの口から親しかった曽我ひとみさんの名前が飛び出す可能性が高い、と判断したのではなかろうか?
しかも、曽我さんの夫は米軍の脱走兵であり、北朝鮮を出れば米国により逮捕される怖れが強いため、北朝鮮を離れることはなかろうとの判断もあったかもしれない。
だからこそ、日本政府が拉致被害者に認定してもいないのに、一緒に行方不明となったひとみさんの母親について北朝鮮として満足な説明ができないことはわかっているにもかかわらず、北朝鮮は曽我ひとみさんの拉致を自白したのではなかろうか?
それほど北朝鮮にとって、13才の横田めぐみさん拉致に対する日本国民の怒りの感情を鎮めることが再重要課題であったということであろう。
私には、北朝鮮がわざわざ曽我ひとみさんの拉致を認めた理由は、他に思い浮かばない。
もし私の推測が正しければ、横田めぐみさんの問題がなければ、曽我ひとみさんは日朝を揺るがす拉致問題の表舞台に飛び出すことはなかったのではなかろうか?




19才で着の身着のまま母とともに拉致されて、

米国人と結婚し子供を授かり、それなりに幸せに暮らしていた。

ある日突然「拉致問題」の表舞台に引っ張り出され、

それは恐らく横田めぐみさんを知っていたことが、大きな理由であろうか?

24年ぶりに一時帰国を果たしたが、夫と子供は彼の地に残したまま。

ともに拉致された母も、いま私の隣にはいない。

幾多の予期し得る質問のアラシを思うとき、

喜びより不安がまさる憂い顔の帰国。

タラップを降りる私は、緊張で張り裂けそう。

空港に迎えてくれた妹は、私を見て泣いていた。

そこにいたのは、24年前と同じ優しい妹だった。

妹を抱きしめて、私は初めて涙がこぼれてきた。

妹は私がどこかへ消えてしまわないように、私の手を強く握ったまま。

私も妹の手を握り締めた。

私にはわからなかった。

脱走兵である米国人の夫と子供を彼の地に残した私は、

ひょっとして、これから二度と此の地に戻ることはないかもしれない。

そしてたくさんのフラッシュ、テレビカメラ、報道陣の波。

予期された質問。でも私には答えられない。

24年ぶりに帰国させていただいた人々には申し訳ないけれど、

私には答えられない。

愛する夫と子供たちが、彼の地で私を待っているのだから。

そして故郷への汽車に乗る。


 哀しみよ、故郷の山河に木霊せ!(中編)
(2002/11/02)

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