the NIKKEI-watcher

<Taka remarks>

小泉純一郎氏  「信なくば立たず/やってから考える」

「加藤の乱」



DATE・・・・2001/05/01(E-3)
記者 ・・・・編集委員 宮本明彦
TITLE ・・・”ニュース複眼”/政治家の命運握る瞬間/時代の風に乗った小泉氏
評価 ・・・・A
Recommend!


『小泉政権の発足を一番複雑な思いで見つめているのは、加藤紘一氏かもしれない。』
という文章から始まる宮本氏のこの一文は、ある意味でそっとしておいてほしい連中も多いかと推測される永田町の裏話を、政界の裏表に精通する政治記者のジャーナリスト魂が表舞台に取り上げた、たいへん興味深い記事であると思う。
記事によれば、小泉純一郎、加藤紘一両氏に山崎拓氏を加えた三人が、その頭文字をとって「YKK」グループと呼ばれ始めたのは、1991年6月頃であったという。

思い起こせば、1972年7月の自民党総裁選で、田中角栄氏が福田赳夫氏を大差で下して新総裁となって以来、日本の政治は質より数を争う「数合わせの政治」へと変質したのではなかろうか。時には表舞台で時には舞台裏に回って、時には他党とも手を組んで、常に(できれば圧倒的な)数の力で残りの党内反あるいは非主流派の押さえ込みを図るのが、田中派から始まり、ほめ殺し騒動で一波乱はあったが結果的に跡目を継いだ竹下派、小渕派、現在の橋本派の変わらぬ露骨な基本戦略であり、かつほとんどの場合それに勝利を収めてきたというのがここ2,30年の日本の政治の基本構図ではなかったろうか。そして小泉政権が、数の力で上回る橋本派を核とするいわゆる守旧派と称される連中を相手に逆転勝利を続けられるかどうかは別として、政治の基本構図自体はいまもなんら変わりはない。

宮本氏は、YKK結成のいきさつが、実は1991年秋に予定されていた自民党総裁選においても再選は確実と見られていた経世会(竹下派)に支えられた海部内閣への”ゆさぶり”、すなわち「(竹下派)経世会支配からの脱却」にあったこと、そしてなぜ三氏であったかということなどを、秘話・裏話をまじえながら丁寧に解説している。

『(加藤紘一、山崎拓)両氏がそれぞれ仕えていた宮沢喜一、渡辺美智雄氏の出番は回ってきそうにない。それでは自分たちへの世代交代がいつになるか分からない、という焦りが二人にはあった。」』
『ここに竹下派のプリンスだった中村喜四郎議員(現在収賄罪で服役中)が合流する。中村議員は「パイプを作っておかないと、経世会包囲網に発展する」と金丸信氏や竹下登氏に説き、いわば非公式メンバーとして参画した。』
『さて安倍派(現森派)からは誰がいいかーー。今は民主党にいる鹿野道彦氏の名前が挙がった。安倍派はいずれ鹿野派に衣替えする、と多くが感じていた。将来の首相たらんとした三人にとって、同世代の候補が四人になるのは少し重い。そこで小泉氏に白羽の矢を立てた。一匹オオカミで「首相タイプじゃない」とみられていたからである。』

上記に名前の登場した五人すなわち加藤紘一、山崎拓、中村喜四郎、鹿野道彦、小泉純一郎各氏は、いまとなればまさに五者五様の道を歩んでいる。最後に名前が登場した小泉氏が唯一しかも現在首相となっているというのも興味深い。この中の一人、加藤紘一氏に、記者は本記事の焦点を合わせている。

実は、その加藤氏こそ政治家の運、不運は一瞬の判断によると熟知し「加藤の乱」を起こしたに違いない。

昨年11月、元幹事長加藤紘一氏は、支持率10%台にあえぐ不人気森政権に退陣を促すべく、折りしも中川官房長官のスキャンダル辞任という機をとらえて、山崎拓氏の山崎派と組み「野党が提出する内閣不信任決議案採決の本会議に欠席する」と宣言し圧力をかけたが、肝心の自派閥が野中幹事長率いる橋本派の切り崩しにあい、堀内光雄氏を中心とする半数以上が不信任決議案反対にまわり、20日の本会議採決に先立ってあっさり敗北を確定してしまった。これを称し「加藤の乱」という。加藤氏はこの突如の暴発により、しかもあまりにも政治家らしくなくあっけなく敗れ、『手を伸ばせば届く所まで来ていた首相の座』を、自らまったく手の届かないところへ追いやってしまった。
宮本氏は、『皮肉な巡り合わせだ』という。しかし果たしてほんとうに単に皮肉なだけの”巡り合わせ”だったのだろうか?なぜ加藤氏は”あまりにも政治家らしくなく、しかもあっけなく”「加藤の乱」に敗れてしまったのであろうか?そこには、”練達の政治家”加藤氏の”政局の読み違え”があったとしか考えられない。

では加藤氏は、どの部分の政局を読み違えたのであろうか?
4月19日付日経新聞朝刊3面”どうする日本”が、18日に日本記者クラブ主催で開かれた自民党総裁選に立候補している麻生太郎、橋本龍太郎、亀井静香、小泉純一郎の四候補による公開討論会の席上、小泉氏と他の3氏との間で激しい応酬が交わされた中に、『(小泉氏が)森喜朗首相を森派の会長として支えてきた点をつかれると「(当時は)政策の小泉から政局の小泉に変身した」とかわした。』との記事を取り上げている。

一方、宮本氏は本記事の中で、『小泉氏は昨年11月、加藤氏が「内閣不信任案賛成」を表明せざるをえない環境作りに一役買った』と述べている。またさらに、『小泉氏が「YKKは友情と打算の二重構造」だというのは、グループ結成の背景と政治家の「友情」の本質を言い当てている。』とも述べている。

昨年11月12日付日経新聞朝刊第二面に、”10年目のYKK”と題するコラムが掲載されている。『不信任案採決の欠席は所属議員の意思を確認しなければならない「秘中の秘策」』にもかかわらず、野党が想定していた不信任案の提出時期を10日以上も前にしての、しかもほんの数日前にテレビ番組で本会議での欠席戦術を否定したばかりの加藤氏の”早過ぎる決断”の裏に、いったい何があったのか?加藤氏は11月13日付の同氏ホームページ上で、そのあたりのいきさつを、12日に宏池会名誉会長である宮澤喜一大蔵大臣(当時)宅を訪れて交わした会話を引用して、次のように語っている。「ハプニングがあったりして、いろんなものが早く回り過ぎたということは事実です。」
NIKKEIのコラム”10年目のYKK”は、同じく加藤氏のホームページから10日朝、同氏と小泉氏と交わされた電話の内容を次のように引用している。『「あなたも森さんに言ってくださいよ」と言ったら、小泉氏は「まあ派閥の長だからそれはちょっと無理だけど、僕があなたの立場でも、同じようなことを考えたりするだろう。私だったら、もっと激しくやったかもしれない」と言った。』

『加藤氏の「決意」は、小泉氏がこの会話を関係者に伝えたことで一気に広がった。』『ある山崎派幹部は小泉氏の動きを、「不信任案は倒閣の最終兵器。早めに出たら、その芽は摘まれる。小泉氏には加藤氏の機先を制する狙いがあったのではないか?」とみる。』『加藤氏も小泉氏との会話を「個人的でプライベートな会話」と位置付けていただけに、小泉氏が主流派幹部に内容を伝えたと耳にした時には「中身が違う」と周辺に漏らした』という。YKKの盟友で最後まで加藤氏を支えた山崎拓氏は、「大きなながれとしては前から考えていたことだが、(加藤氏が前日9日、財界人との)酒宴で話し、小泉さんがばらすのはハプニングだった。予想もしていなかった。その後展開がドラマチックになった」と総括した。
加藤氏の”政局”の読み違えは、YKKの一方の盟友で当時森派の会長を務めていた小泉氏にあったようだ。しかし小泉氏は「政策の小泉から政局の小泉に変身し」、『加藤氏が「内閣不信任案賛成」を表明せざるをえない環境作りに一役買った。』日経新聞編集委員の田勢氏によれば、小泉氏は、ワイドショーが描き出しているようなうぶなアイドル政治家ではないという。 Taka remarks/2001/06/04(M-2)「天辺の月」と小泉首相
たしかに加藤氏が読み誤った”政局”を、小泉氏はしたたかに読みきっていたのかもしれない。

宮本氏の記事は、『小泉氏は時代の風に乗った。これに乗るかどうかの判断を迫られる一瞬は、たいてい一度しかないというのが歴史の教訓だろう』という結びで、「命運握る瞬間」をつかんだ小泉氏と、つかみ損ねた加藤氏を対比させているが、私がこの記事を引用して特に強調したい点は、次のことである。

85%の国民の支持を得ている小泉氏がどのような人物であるかを語る上で、YKKを抜きには語れない。小泉氏自身は、自民党総裁選に立候補するにあたって、森派という派閥からの離脱を宣言した。それはそれで結構なことではあるが、宮本氏の記事にある如く、YKK誕生のいきさつおよびその活動の主目的をとっても、多数を占める田中派から橋本派へと受け継がれた主流派対少数の反あるいは非主流派の主導権争いというのが、長年の変わらぬ自民党内の基本構図であったことは間違いない。
そして「加藤の乱」においては、YKKという盟友(”友情”)の関係より、森派という派閥に重きを置くしたたかで打算的な「政局の小泉」の側面を見せた。果たして彼は、その心地よい響きの言葉と自信に満ちた身振りで国民にアッピールしているように、過去に自民党自身が積み上げてきた負の諸政策に対する抜本的、彼の言葉を借りれば「革命的」改革を実現できるのであろうか?そしてそのような国民に”痛み”を伴う革命的改革を、”温室”自民党の中にいたままで成し遂げられるのであろうか?

こういう考え方もあるかもしれない。もし「加藤の乱」が成功していたら、自民党は、政界は、政治改革は、そして国民生活はどうなっていただろうか?今より良くなっていただろうか?それとも今より悪くなっていただろうか?
もし「加藤の乱」が成功していたら、自民党が分裂したことだけは間違いなかろう。そして民主党、自由党、保守党をまじえて、政界再編成が行われたに違いない。日経新聞の各種世論調査の結果をみても、現在、民主党の人気はいまひとつかんばしくない。従って、小泉首相一人の個性に頼って、自民党が内なる「革命的」改革に成功するのを祈るような気持ちでじっと待っている現在の政治状況と、昨年11月に政界再編が行われた状況と、いずれが国民にとって望ましい状況であると言えようか?もちろんひと口には答えられない問題ではあるが。
たとえ政策には納得できなくとも(それはそうだろう、森政権がやったことと、小泉政権がやると言っていることとは、異次元ほどに違っているのだから)、派閥の親分森喜朗首相を守るために、盟友加藤氏を見捨てた小泉氏の選択は、自民党内部では評判は良かろうが、果たして国民にとってはどうであったか?当時の小泉氏の心境は推測する以外にないが、おそらく自民党を分裂させたくなかったのと、自派閥の親分の顔に泥を塗りたくなかったのであろう。
また彼は、首相指名後の閣僚選考にあたって、加藤氏が固持したということではあるが、自民党総裁選で山崎拓氏と共に同じ選挙カーの上で応援演説を行った加藤氏を迎え入れなかった。おそらく内閣不信任案採決の本会議に欠席し、党から問責決議を受けた経緯を互いに考慮したのであろう。彼は自派閥のみならず、党にも気を遣っているのだ。加藤氏は、自民党内閣不信任案に賛成投票し、最悪、党を出ることまで考慮した。小泉氏は、「私は自民党を出ない。党の中から自民党を改革していく」こう断言している。彼は自民党が好きなのだ。自民党から離れたくないのだ。また好きだからこそ、良い方向へ改革したいのであろう。そのへんの心境は、プロ野球のジャイアンツファンの心境と似通ったものがあるのかもしれない。

いずれにせよ小泉首相の評価は、今後のその成果が決めることではあるが、「加藤の乱」は、宮本氏の言を借りれば、首相をねらう加藤氏にとって致命的であったかもしれないが、同時に、小泉氏にとってもなにがしかの重要な意味を持つ出来事であったかもしれない。
(2001/07/08)
BACK
NEXT
TOP
MENU