the NIKKEI-watcher

Japan Problem/Basic concept


ダブル・スタンダード(二重基準)の国」

DATE ・・・2001/05/06 (M-16)
記者・・・・・論説委員 吉野源太郎
TITLE ・・・”中外時評”/二重基準社会の終わり/国民は明快な政治求める

評価・・・・・A Recommend!



『日本は長い間、二重基準の国だった。昼と夜の使い分け、社内と社外の使い分け、国内政治と外交の使い分け・・・。米国人なら「不公正」で「卑怯」と見る建前と本音の使い分けを日本人(の男性)はむしろ積極的に肯定してきた。日本経済のいたるところに二重基準の矛盾が埋め込まれているのも、こうした日本人の価値観と無縁ではあるまい。』

出会った時はそう大した印象を受けなかったが、時がたつにつれ何かにつけて思い返され、その存在感が増していく人とか物事があることは、誰もが経験することであろう。吉野氏の「二重基準社会の終わり」と題したこの一文は、まさに私にとって、時とともにその存在感が増していく類の記事であった。
いまや私の心の中には、この「二重基準」こそが、日本の現代社会を根底から解き明かす、いくつかの魔法のキーの一つに違いないという確たる思いがある。

吉野氏は本文中で、女性と男性、建前と本音、開かれた社会(民主主義社会)と開かれてない社会、分かりやすい社会の基準と二重基準の欺瞞、分かりやすい政治と、二重、三重の基準を持つ自民党政治、といった幾つかの対比を試みている。女性、建前、開かれた社会、分かりやすい社会の基準、分かりやすい政治が、一つのグループ。相対するのは、男性、本音、開かれてない社会、二重基準の欺瞞、二重、三重の基準を持つ自民党政治のグループといった構図だ。
男性にとってみたら、既得権益を失いつつある時代であり、女性にとってみたら、自分たちに恩恵が及ぶ新しい社会の芽生えの時代と捉えれば、昨今、男性より女性の方が元気がいいという話にも納得がいく。

『だれに対しても開かれた社会をつくるには、社会の基準は分かりやすく単純でなければならない。』

吉野氏は、開かれた社会を民主主義社会と捉え、いま問われているのは、『「(小泉)首相自身の基準」と明快なルール、その上に成り立つ日本の民主主義である』と考えている。金融社会主義の例を引くまでもなく、私自身、日本は資本主義国家といえるのか?という疑問と、日本に真の民主主義は存在するのだろうか?という大いなる疑念を抱いている。

「二重基準の欺瞞」に関して、吉野氏は@株式の上場と持合いの不透明 A巨額の含み損益を前提にした会計制度 B銀行経営の自立と国営郵便貯金の維持 C自身の株価と親会社のNTT持ち株会社の株価に二重に反映されるNTTドコモの評価 D国土の均衡ある発展と首都一極集中などの例を挙げているが、他にも世界で唯一の被爆国の立場から核の悲劇を訴える一方で、原爆の材料となる使用済み核燃料を大量にストックする核燃料再処理工場を建設し、プルサーマル計画を推進しようとする欺瞞、汚職・贈賄事件を繰り返しながら、教育制度改革を声高に唱える欺瞞、自由貿易を標榜し米国のダンピング認定に異を唱えながら、中国に対してセーフガードを導入する欺瞞、IT革命の到来に日本経済の立ち直りを託しながら、一方で寡占NTTの通信料金の引き下げに消極的態度を示す欺瞞、数え上げていったら限がない。吉野氏が、『日本経済のいたるところに二重基準の矛盾が埋め込まれている』というのも、まさに適切である。
そして小泉首相が登場する。吉野氏は、この記事の中で、ある意味で、小泉首相を自民党守旧派に対比させている。

『自民党は大都市への顔と地方への顔を使い分けてきた。どんな国民階層の要求にも対応できる自民党の強さの本質は懐の深さだった。それはこの政党が二重、三重の基準を持っていたからである。』
『小泉首相に求められているのは、行き詰まった二重基準の政治・経済構造を終わらせる仕事だ。』

もともとこの記事は、吉野氏が試写会で見た「ザ・コンテンダー」という米政界の権力闘争を描き、男性社会の二重基準の欺瞞を告発した映画の話からスタートしている。FBI捜査員は、身辺調査結果に基づいて、副大統領候補の女性上院議員の政治家としての適性を大統領に進言する。『彼女にはダブルスタンダード(二重基準)がない』
小泉首相に、ダブルスタンダードはないであろうか?小泉首相に関し、私がもっとも気になるのは、ただこの一点である。

彼は、上記「二重基準」のテーマの外に、「建前と本音」の根本的な意味について、私に再考を迫った。彼はこう言う。
『本音はどうあれ、最後は建前を重んじる米国の風土と、それを貫く者への尊敬である。民主主義社会はルールを重んじる社会だ。それは建前を尊重しなければ成立しない。』

この一文を読むまで、私は、日本は「建前」優先の国で日本人は「建前」尊重の人種、米国は「本音」の通用する国で米国人は「本音」を尊重する人々、そして私自身日本人でありながら、米国人に近い「本音」尊重人間であると長年考えてきた。それがどうだ、吉野氏は、まったく正反対のことを言っている。
彼は、米国は「建前」尊重の国であるといい、文脈から必然的に日本は「本音」優先の国となる。読んだ当初は、何かの間違いだと考えた。しかし時がたつにつれ、間違っていたのは自分の方ではないかと思われてきた。米国人のことはよく分からないが、日本の社会では、筋の通った「建前」が、まったく筋の通らない「本音」に反故にされるという現実が、少なからずあることに思い至った。最たる「建前」である法律が、行政指導という名のもとに「お上」の「本音」に覆されてしまう現実。「建前」は白であっても、上司の「本音」が黒であれば、その上司の「本音」に従わざるを得なかったほんの暫らく前までのサラリーマン社会の現実。これらはすべて、力を背景に自分らの「本音」の基準を、偽りの「建前」の基準の名のもとにゴリ押しせんとする、日本社会の「二重基準」の欺瞞が背景にあったのではなかろうか。

そう言われてみると、米国人(に限らないが)は、すれ違うだけでも知らない相手にニコッと笑顔で挨拶らしきものをする。これまで私はこれを、彼らは心から、つまり「本音」で、ニコッとしているのだと考えていた。しかしこうも考えられる。このニコッは「建前」の笑顔であって、彼らの「本音」は、このニコッに対する相手の出方如何によるのだとも考えられる。一方、日本人は山道ならいざ知らず、街中で知らない相手に決してニコッとしたりはしない。知らない人間にニコッとするのは危険である、というのが理由ではなかろうか?まったくもっともな理由で、まさにそれは「本音」である。知らない人間は危険であるかもしれないというのは、たとえ米国であっても同じではなかろうか。にもかかわらず、彼らはニコッとする。なぜか?それは、それが彼らの社会の「建前」であるからではなかろうか?ニコッとしない「本音」より、ニコッとする「建前」が優先される米国社会と、ニコッとしない「本音」が通用する日本の社会。
確かに吉野氏が言うように、「建前」が優先されるように見せかけて、実は「本音」もしくは「建前」の名を借りた「本音」が優先されるのが、この日本の社会の欺瞞に満ちた「二重基準」の現実ではなかろうかと考える。

吉野氏のこの一文は、価値ある名記事ではないだろうか?
(2001/06/21)

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